「続(しょく)日本紀」をひもとくと、天平宝字8年(764)8月14日条に「使を遣わして池を大和、河内、山背、近江、播磨、讃岐等の国に築しむ」とある
また延暦4年(785)に死去した刑部郷淡(お)海(うみの)真人(まひと)三船(みふね)の卒伝には「(天平)宝字中に従5位を授けられ(中略)8年造池使に充てられ、近江に往きて池を修造す」と記されている。つまり天平宝字8年における造池事業は、淡海の三船によって進められたということであるが、その三船の手になる池こそ布施溜池に他ならないとする見方が流布している。
後日白川法王の撰なる「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」(1169)にも「近江におかしき歌枕、老曽(おいそ)轟(とどろき) 蒲生野布施の池(下略)」というふうにとりあげられている。(八日市史抜粋)
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