瀧口 勇氏(船岡町)よりいただいた文章を転記します。
子供のころ、古老から聞いてきた話である。
阿賀神社の本殿の祀られている右側の古宮さんは、今日でも遠くからこの古宮さんへわざわざご霊験を敬い参詣する人がある。現在お旅所となっている位置にあった。今は落雷で枯れたので伐採されたがそれまでは地元では「おうみの木」とよばれていた。太い二本の幹が抱き合うようにして大きな枝を垂れていた。逢身という名の由来ではないかと推測される。
その昔、八風街道に面していたこの社の前を通りかかった旅人が、「なんと見窄らしい宮やなあ」と呟やきながら通り過ぎようとした途端、大きな松ノ木が横たわり、旅人の行く手を塞いだ。旅人はついうっかりと侮辱した、浅ましいさもしい心から出た言葉を真剣に詫びたところ、松ノ木は元通りの姿にかえり往来を許したという。この事からきっと神の使いは天狗だと信じられたようで、後世の人達は祭神を天狗のように高い鼻の猿田彦命と考えたのではないか、と推察するのである。
先に述べた「おおみの木」についての伝説は、太郎坊さんとの関係を元八日市市長・今宿次雄さんが、「台風で自分の畑にそびえていた松ノ木が根こそぎ倒れ枯れた。あの松は八風街道沿いの野口町の宮の松が次郎坊の鞍馬山から飛んでくる使者の天狗の休む一番松でね、その後うちにある松に留まり身なりを整えて太郎坊神殿まで駆け登ると聞いてきた。縁ある松だね。何かしら不吉さを覚えるよ。惜しいこと。」と話されたのは私が秘書係時代に聞いたことである。
神社庁には、野口の阿賀神社の祭神は「あめのおしおのミコト」とされているが境内に記述したものと異なる理由は本殿への移転によって社が変わったときからで、関係先への届けに齟齬があったものと思われる。
「阿賀と云う語は大変かわいい子と言う意味」
阿賀神社の名の起こり
神代の昔、素戔嗚尊が天照大神の命によって、高天原へお上がりになる時櫛玉尺瓊勾玉をいただきました。ある時、尊は大神に「私は生まれつき乱暴者で、しばしば大神の御心をお悩まし申したが、今後は決して乱暴はいたしません。その証拠に此の玉から男の子を生んでお目にかけます。」とおっしゃって、玉を口にお含みになりますと、忽ち五人のお子様がお生まれになりました。
阿賀神社の祭神はその中でも、吾勝尊を大そうお慈しみになり、いつも腋の下に入れてお育てになりました。阿賀神社の祭神はこの吾勝尊で、小脇町は脇の子と言う意味だと申します。(昭和10年・9・1・発行の八日市郷土読本から)
*野口町は明治の町村編成までは小脇郷であった。