「市辺」の名前について(概略)
政府は全国一斉におおがかりな地券取り調べ(土地の所有者や所在地・地目・面積・地価・租税などを明確にする)を実施しました。この地券取り調べが行われたことをきっかけに、道路をへだてただけでそれまで別の村であった東古保志塚村と西古保志塚村が合併し、「市辺村」となりました。明治7年5月2日のことでした。
明治22年、平成の大合併と同じよう全国的に大規模な町村合併がすすめられました。この年の4月1日、市辺・糠塚・野口・三津屋・布施・蛇溝の6カ村が集まって、市辺村をつくりました。そして、昭和29年8月15日には、八日市町・市辺村・平田村・玉緒村・御園村・建部村が合併し、八日市市となりました。
私たちの暮らすふるさとの変遷を明治初年、知ることは、そのふるさと深く愛することに繋がります。
「市辺」の名前の由来 (中島伸男氏 記念誌「いちのべ」より)
「古保志塚」から「市辺」へ
明治初年、政府は全国一斉におおがかりな地券取り調べ(土地の所有者や所在地・地目・面積・地価・租税などを明確にする)を実施しました。この地券取り調べが行われたことをきっかけに、道路をへだてただけでそれまで別の村であった東古保志塚村と西古保志塚村が合併し、「市辺村」となりました。明治7年5月2日のことでした。
合併までは「市辺」と呼ばず、この東西二つの村は「古保志塚」、または略称で「こぼし」と呼ばれていました。
昔の長森の道に建てられていた道しるべ(天保7年建立、現在は中野神社の境内に移されている)にも、「右、京・武佐」「左、こぼし・はね田」というように、「こぼし」(古保志)という地名が刻まれていることからも、そのことが分かります。
東西の古保志塚村が、なぜ合併して市辺村と名乗ったのでしょうか。これは、よく知られているように、『古事記』や『日本書紀』にもとづく市辺押盤皇子(いちのべのおしわのみこ)の墓所とされた古墳が東古保志塚村の領域内にあったからです。
墓所選定の経緯
しかし、市辺押盤皇子の墓所は、簡単にきまったわけではありません。
江戸時代の中頃から尊皇の思想が高まり、全国各地で『古事記』・『日本書紀』などに記されながら、場所が確定されていない天皇や皇族の陵墓(りょうぼ)探しがすすめられてきました。とくに幕末には幕府も陵墓探しに力を入れ、維新後も明治政府がその作業を引き継ぎました。
このような中で、市辺押盤皇子の墓所として候補にあがっていたのは、東古保志塚・坤にある古墳と妙法寺・熊野林の古墳、そして音羽(日野町)の御骨堂の三カ所でした。
現宮内庁書陵部(くないちょうしょりょうぶ)に残された資料によると、この三カ所を比較検討した結果、明治8年8月7日付で東古保志塚の現在地を皇子の墓所とする通達が出されています。理由として、『古事記』や『日本書紀』に、「市辺皇子と従者の墓所が連ねて築かれた」と記されているとおり、東古保志塚のそれが大小二つの古墳が連なっていることが挙げられています。
しかしはかにも、古墳と隣接する小字が「萱野(かやの)」であるくこと(市辺押盤皇子が猟をしたとされるのは「近江の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)」である)や、古墳の地名が「オニカド」(皇子ケ堂)と呼ばれていたことも参考になっていたのかもしれません。
「通達」と村名決定の時間差
そして、もう一つ考えられるのは、地元でも語り継がれているように、当時の村の有力者であった広瀬新五郎の努力と奔走です。彼の奔走があって、明治政府の関係者も「古保志塚説」に大きく心を動かされたのではないかと思われます。
ここで、不思議に思われるのは、宮内省の正式通達が出る明治8年8月7日より1年3ケ月も早い、明治7年5月2日に東西の古保志塚村が合併して、すでに「市辺村」を名乗っていることです。この逆の時間差は、いったいどういう理由でしょうか。
推測してみるに、市辺押盤皇子の陵墓指定がほぼ確実であるという情報を村の当事者がすでに得ていたためでしょうか。あるいは、陵墓指定を確実にするための強力な事前運動として、機先を制し「市辺村」を名乗ったのでしょうか。そのどちらであるかは分かりませんが、おそらく広瀬新五郎などの尽力が功を奏し、「指定確実」となったことを知ったうえで、当事者は合併後の村名を「市辺」としたものであると私は推測します。
「墓所参道」の碑
このように、『古事記』・『日本書紀』の中の大きなドラマの主人公である市辺押盤皇子の墓所が東古保志塚のものであるという通達をえたことは、村人たちにとって大いに誇るべき出来事でした。
大正2年に湖南鉄道が開通しましたが、当時の「湖南鉄道沿線略図」にも名所として「市辺皇子ノ墓」の名前が記されています。さらに、昭和4年には、市辺駅前に帝国在郷軍人会市辺分会の手で「市辺押盤皇子御墓参道」碑が建てられました(現在、船岡中学校前に移築)。これらのことから、市辺皇子の陵墓への参拝者・参観者は、いま以上に多かったであろうことが偲ばれます。なお、広瀬新五郎は明治14年に市辺村長として、そのころ荒野であった長谷野丘陵に、中野村長・蛇溝村長を誘い松の植林を行って、村人たちの燃料源の供給確保に大きな功績をあげています。時代の変遷で松林はなくなりましたが、記念碑は変わりなく布引台団地の一角に残されています。
さらに昔は「破塚村」
なお、「古保志塚村」からさらに古い地名を探してみると、永正14年(1517)の古文書には、「東破塚」「西破塚」という村の名前が記録されています。また永禄元年(1558)の文書に平仮名で「こほちつか」と書かれているので、「古保志塚(こぼしづか)」と呼ぶ前は「こほちづか」「こぼちづか」と呼んだものと思われます。
「こぼちづか」とは、塚(古墳)を開拓して田畑にしてゆくことです。荒野や山林、そして古墳などを田畑に開拓することは、耕作地の拡大のためあちらこちらで行われてきましたが、古保志塚村の場合はこのような開拓の労苦が地名として残されたのでしょう。
明治22年、平成の大合併と同じように全国的に大規模な町村合併がすすめられました。この年の4月1日、市辺・糠塚・野口・三津屋・布施・蛇溝の6カ村が集まって、市辺村をつくりました。そして、昭和29年8月15日には、八日市町・市辺村・平田村・玉緒村・御園村・建部村が合併し、八日市市となりました。
私たちの暮らすふるさとの変遷を知ることは、そのふるさとを深く愛することに繋がります。八日市市は、まもなく「東近江市」に生まれ変わるわけですが、いまこそ、それぞれの地域でその地域の歩みを見つめ直すことが大切なのではないでしょうか。
悲劇の皇子
なお、『古事記』や『日本書紀』に出てくる、市辺押盤皇子の物語は概略つぎのようなお話になっています。
第17代履中天皇(りちゅうてんのう)の皇子、市辺押盤皇子はあるとき大泊瀬皇子(おおはっせのみこ)(のちの雄略天皇(ゆうりゃくてんのう))から「近江の久多綿(くたわた)の蚊屋野」へ狩猟に行こうと誘われました。市辺皇子が馬を走らせていると、急に大泊瀬皇子が矢を射かけ皇位継承の競争相手であった市辺皇子を射殺してしまいました。そのとき、従者の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)も同じように射殺され、皇子とともに埋められました。
市辺皇子には億計(おけ)・弘計(をけ)という二人の子どもがありましたが、危険を感じ、播磨国(はりまのくに)に逃れて馬飼い・牛飼いとして働いていました。その後、天皇の跡継ぎがなくなって、市辺皇子の二人の皇子が播磨国で見つけ出されました。
億計・弘計の兄弟は大和国に戻り、弟・弘計が第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)になられました。天皇は、父・市辺押盤皇子を偲び御陵を築かれました。このとき、従者・佐伯部売輪の陵墓も併せて築かれました。このことが、『日本書紀』には、「二つの陵を造りたて、相似せて一つなり」と記されているのです。
血で血を洗う古代の皇位継承争いの悲劇の主人公、それが市辺押盤皇子なのです。
コメントは受け付けていません。