古保志の地名は
明治初年までの現在の市辺村落の名称であって、市辺押盤(いちのべおしわ)皇子(のみこ)のお墓を境いに、東を東古保志塚村、西を西古保志塚村と称されておりました。
古くからその市辺押盤皇子のお墓を守るに因って、文字通り「古保志塚村」とされていたのであります。
しかしながら中世後期から近世前期にかけては、歴史のいたずらと申しましょうかお墓がひどく荒らされていたため、破塚村(こわしづかむら)とか壊塚村(こぼちづかむら)とか書かれていた時代もありました。
慶長6年(1601)仙台藩領となって明治維新に至る訳ですが、住民の殆どは農耕の従事者であったが、東古保志塚村には商工業に携わるものがあって、保内商人座の一つとして名がのこされております。西古保志塚村の浄土宗法徳寺は寛永12年(1635)の創建であり、その境内にはそれよりも古くから薬師如来が祀られる天台宗のお堂があって、毎年1月8日の夜には、悪病悪難除奇岩の迫力ある踊り祭りの祭典が、今尚続けられております。
明治7年(1874)東西両古保志塚村は統一されて市辺と改称され、その市辺を中心に北西に隣接する糠塚、野口、三津屋、東南に位置する蛇溝、布施を合併して市辺村が発足いたしました。
そしてその中央に村役場が建ち、村立市辺小学校が開校された。それから約80年後の昭和29年、旧八日市町を中心に行われたⅠ町7ケ村合併の八日市市が誕生して今に至った次第です。
八日市市発足後、日本の急速の高度経済成長に伴い、この古保志の里にも、新たに長谷野町、柏町、布引町、船岡町、が誕生されて、新旧住民が心豊かに、思いを一つにし、力をあわせて新しい時代の故郷づくりに邁進いたしております。
コメントは受け付けていません。