市辺押盤皇子がこの地で不慮の死をとげられたのは
今より1500有余年も前の西暦5世紀半ばの頃でありまして、当時この地方は鹿や猪の跳び交う狩猟の原野でありました。
当時天皇継承の争いから有力皇子たちの抗争が続き、允恭天皇の子大泊瀬皇子は、履中天皇の子市辺押盤皇子を、近江来田綿の蚊屋野に誘い出して殺害し、雄略天皇として即位されたのであります。市辺押盤皇子の二人の遺児は、この雄略天皇の追及を逃れて播磨に潜伏されるが、やがて都に上がり顕宗(弟)任賢(兄)天皇となられたのであって、その顕宗天皇のとき、父君の不慮の死を悼み、発見されし遺骨をこの蚊屋野の地に陵墓として築かれたのが、市辺押盤皇子の御墓であります。
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